
國分功一郎が『中動態の世界——意志と責任の考古学』で取り上げる中動態は、「能動態でも受動態でもない第三の態」とだけ説明すると誤解を生みやすい概念です。中動態は、能動と受動の中間にある曖昧な領域ではありません。むしろ、現代語話者が当然視している「する/される」という対立そのものを、いったん外側から見直すための文法的・哲学的な装置です。
國分の説明では、古いインド=ヨーロッパ語の段階には、現在のような能動態/受動態の対立よりも、能動態/中動態の対立がありました。ここでの区別は、主語が行為を自分の外部で完遂するのか、それとも主語自身が行為・変化・感情の過程が生じる場になるのか、という点にあります。前者の例としては「与える」「殴る」が、後者の例としては「惚れる」が挙げられます。
| 捉え方 | 行為の理解 | 例 | 臨床で起こりやすい誤読 |
|---|---|---|---|
| 能動態/受動態 | 本人がするか、外部からされるか | 服薬する、治療を受ける | 本人の意志か、環境のせいかに二分する |
| 能動態/中動態 | 行為が主語の外で完遂するか、主語の内で過程として生じるか | 欲する、苦しむ、惚れる、回復し続ける | 本人を行為の唯一の原因とみなさない |
たとえば「患者が治療を拒否した」という記録は、能動態的には明快です。しかし、疼痛、恐怖、過去の医療体験、認知機能、家族関係、経済的困難、説明への理解、病棟環境が絡む場合、「拒否」は単独の意思決定として完結していないかもしれません。中動態は、本人を無能力な受動者に置き換えるための概念でも、責任を消すための概念でもありません。行為がどのような関係と条件のなかで生じているかを、二択にせず記述するための視座です。
中動態を神秘的な「東洋的思想」や心理学用語として扱わないことも重要です。國分は古典ギリシア語を学び、言語史と言語学の議論、とくにエミール・バンヴェニストの中動態論を踏まえてこの概念を検討しています。 医療者にとっての実用性は、患者を「自ら選ぶ主体」か「外因に支配される被害者」かへ急いで配分しない点にあります。
参考)UTokyo BiblioPlaza - 中動態の世界
中動態の基本的な定義と、國分本人による医療との接点は、医学書院の受賞記念インタビューで確認できます。
医学書院「『中動態の世界』と医療(國分功一郎)」
医療現場では、「本人が望んだ」「本人が選んだ」「治療意志が乏しい」といった表現が頻繁に使われます。インフォームド・コンセントや意思決定支援が重視されるほど、意志は自明の土台であるかのように扱われがちです。しかし國分の中動態論は、意志を否定するというより、意志を説明の出発点として固定してよいのかを問います。
國分は、古代ギリシアには現在の私たちが考える意味での「意志」の概念や語がなかったことに注目します。そして、能動/中動という把握が能動/受動へ置き換わる過程と、意志の概念の成立との関係を検討します。 ここから直ちに「意志は存在しない」と結論することはできません。重要なのは、意志が歴史を超えた透明な実体ではなく、人を評価し、選別し、責任を割り振る際にも働く概念だと理解することです。
依存症を例にすると、「飲酒したのだから本人の意志である」とする説明は、渇望、習慣、離脱症状、生活史、孤立、広告、利用可能性を背景へ退けます。反対に「病気なのだから本人には何もできない」と言い切れば、本人が試行錯誤してきた回復の営みや、支援を求める力まで奪いかねません。中動態的な問いは、「誰が原因か」ではなく、「この飲酒や回復は、どのような条件で本人に起こり、本人と周囲をどう巻き込んでいるか」です。
この言い換えは、責任の所在を曖昧にするための配慮ではありません。むしろ、具体的な介入点を増やすための臨床推論です。服薬が続かない患者に対し、「意志が弱い」と記すだけでは支援の選択肢が狭まります。服薬時刻、眠気、嚥下困難、スティグマ、費用、家族との関係、薬への意味づけを確認すれば、支援計画は本人の人格評価から環境調整と共同作業へ移ります。
國分が中動態を本格的に考察する契機の一つは、依存症の自助グループの人々との出会いでした。そのなかで示された「回復とは回復し続けること」という表現は、回復を一回の能動的決断でも、治療によって受け身で獲得する成果でもないものとして示します。 回復は、本人の内部だけで完結しない一方、本人の外で単純に処理されるものでもありません。
この見方は、再発をめぐる言葉にも影響します。「再発した」は医学的記述として必要なことがありますが、そこに道徳的失敗という意味が加わると、患者は援助希求から遠ざかりやすくなります。中動態の観点では、再発・増悪・中断を、本人に起こった出来事であると同時に、本人、症状、治療、生活環境、関係性のあいだで進行した過程として読みます。
ここで意外に重要なのは、「回復した」という完了形よりも、「回復し続ける」という継続形です。糖尿病、心不全、摂食障害、うつ病、慢性疼痛などでは、改善と悪化、セルフケアと支援への依存は直線的に進みません。目標を達成できたかだけでなく、患者が不調の兆候を言葉にできるか、支援につながれるか、生活を再編できるかというプロセスを評価するほうが、実態に近い場合があります。
ただし、中動態を用いて疾患の医学的説明を置き換えてはなりません。疾患機序、リスク評価、治療効果、有害事象への対応は、エビデンスに基づいて行う必要があります。中動態が補うのは、病態生理ではなく、病いと治療が当事者の生活のなかでどのように経験され、語られ、継続されるかという記述の層です。
國分功一郎の著書の成立背景、依存症との関わり、書籍全体の章構成は東京大学の書籍紹介で確認できます。
東京大学UTokyo BiblioPlaza「中動態の世界 意志と責任の考古学」
中動態は「責任を問わない」思想ではありません。むしろ、意志を責任の唯一の根拠にする発想を離れたあとに、どのように責任をつくり直せるかという問いにつながります。熊谷晋一郎と國分功一郎の共著『〈責任〉の生成——中動態と当事者研究』は、この問題を当事者研究との対話のなかで深めています。
当事者研究では、困りごとを個人の性格や欠陥に還元せず、「研究」できる対象として取り出し、仲間とともに観察し、言葉にし、対処を試みます。ここでいう外在化は、「私は問題そのものではない」という距離をつくる働きを持ちます。ただし、問題を外部のせいにして終える操作ではありません。「私に起きていること」に対して、本人と他者が応答可能になるための方法です。
医療者が患者の行為を「コンプライアンス不良」「指示違反」と即座に分類すると、患者は評価される対象になりやすくなります。中動態と当事者研究の接点は、患者を原因の担い手として裁くのでなく、患者と支援者がともに現象を研究する関係へ移すところにあります。
| 問いの置き方 | 起こりやすい結果 | 中動態的な置き換え |
|---|---|---|
| なぜできないのですか | 弁明、羞恥、防衛 | どんなときに難しくなりますか |
| やる気はありますか | 意志の有無による評価 | 続けやすくなる条件は何ですか |
| 誰の責任ですか | 責任の押し付け合い | 今後、誰が何に応答できますか |
責任を「過去の失敗に対する帰責」だけでなく、「これからの出来事に応答する関係」として捉えると、医療者の役割も変わります。患者が一人で正しい選択をすることを待つのではなく、選択肢を理解できる形に整え、時間を確保し、支援資源へつなぎ、意思が揺れることを前提に再相談可能な場を保つ。これらは患者の主体性を奪うのではなく、主体性が生じうる条件を整える実践です。
当事者研究、医学モデル/社会モデル、責任、意思決定支援をめぐる詳細な論点は、東京大学東アジア藝文書院の刊行案内で目次から確認できます。
東京大学東アジア藝文書院「〈責任〉の生成—中動態と当事者研究」
検索上位の解説では、中動態を「惚れる」や「欲する」といった例で説明することが多く、文法と哲学の理解には有用です。一方、医療従事者にとっての独自の実践的論点は、日々作成する医療記録にあります。記録は単なる情報の保存ではなく、次の支援者が患者をどう理解するかを方向づける言語です。
たとえば「患者は治療への意欲がなく、指導に従わない」と記載されると、次の担当者は患者を非協力的な能動的主体として読みやすくなります。しかし、この一文だけでは、何が起きたのかが分かりません。中動態的な記録は、責任をぼかす文章ではなく、行為が生じた条件と過程を具体化する文章です。
このような記録は、患者を免責するためではありません。何が観察され、患者が何を語り、どの条件が介在し、次に何を試せるのかを共有可能にします。「意志がある/ない」という短い評価語より、具体的な過程の記述のほうが、多職種連携における再現性を高めます。
中動態の世界は、医療者に「患者の意志を尊重しなくてよい」と教えるものではありません。反対に、意志を尊重するとは、患者に一貫した選択を要求することではなく、揺れ、迷い、症状、関係性を含む過程をともに扱うことだと示します。國分功一郎の中動態は、患者を能動か受動かに分類する前に、いま何がその人に起こり、誰がどのように応答できるのかを問い直すための、臨床の言葉でもあります。