腹膜刺激症状とは、腹膜、とくに痛覚に富む壁側腹膜に炎症、化学的刺激、虚血、血液、消化管内容物などの刺激が及んだ際に認められる身体所見の総称です。腹膜炎を示唆する重要な徴候であり、急性腹症においては、単なる腹痛の原因検索にとどまらず、緊急手術、緊急画像評価、入院加療の必要性を判断するための臨床的な警告サインとして位置付けられます。
代表的な所見には、圧痛、反跳痛、筋性防御、筋性硬直、打診痛があります。反跳痛は、ゆっくり圧迫した腹壁から手を急に離した際、腹膜が動くことで疼痛が増悪する所見です。筋性防御は、圧痛部を触診したときに患者の意思とは無関係に腹筋が収縮する状態を指します。筋性硬直はより持続的かつ強い腹壁緊張であり、びまん性腹膜炎を想起させる所見です。
急性腹症診療ガイドラインでは、筋性防御、筋性硬直、反跳痛、打診痛を直接的に確認する腹膜刺激徴候として整理しています。また、咳嗽試験や踵落とし試験は、腹壁への強い圧迫を避けながら腹膜刺激を間接的に評価する手段になります。打診痛が明確な場合は、患者の苦痛を増やし得る反跳痛をあえて誘発しなくてもよいとされています。腹膜刺激徴候は腹膜炎の検出に有用ですが、単独の身体所見だけで診断を確定するものではありません。病歴、疼痛の発症様式、バイタルサイン、検査所見、画像所見を組み合わせて解釈することが不可欠です。
参考)https://plaza.umin.ac.jp/jaem/docs/guideline2015_9.pdf
急性腹症診療ガイドライン2025 第2版(Minds)
腹膜刺激症状を呈する疾患は、消化器外科領域だけに限られません。最優先で想定すべき病態は、消化管内容、胆汁、膵液、感染性腹水、血液などが腹腔内に漏出し、化学的あるいは細菌性の腹膜炎を引き起こす状態です。なかでも消化管穿孔、腸管虚血・壊死、腹腔内出血は急速に循環不全や敗血症へ進展し得るため、時間依存性の高い救急疾患として対応します。
消化管穿孔では、胃・十二指腸潰瘍穿孔、穿孔性虫垂炎、憩室穿孔、虚血性腸炎の壊死・穿孔、大腸癌穿孔、医原性穿孔などが重要です。初期には胃酸、胆汁、腸液などによる化学性腹膜炎が前景に立ち、その後に腸内細菌の流入に伴う細菌性腹膜炎が加わります。突然発症の激烈な腹痛、体動で増悪する痛み、腹壁硬直、腸雑音減弱または消失、発熱、頻脈、血圧低下などがあれば、穿孔性腹膜炎を強く疑います。
| 病態・疾患群 | 代表疾患 | 臨床上の着眼点 |
|---|---|---|
| 消化管穿孔 | 消化性潰瘍穿孔、憩室穿孔、穿孔性虫垂炎、大腸癌穿孔 | 突然の強い腹痛、遊離ガス、腹壁硬直、敗血症兆候に注意する |
| 炎症性腹膜炎 | 急性虫垂炎、急性胆嚢炎、憩室炎、骨盤内炎症性疾患 | 局在痛から始まり、炎症波及で限局性またはびまん性の腹膜刺激症状を来す |
| 腸管絞扼・虚血 | 絞扼性腸閉塞、腸捻転、上腸間膜動脈閉塞症 | 疼痛の強さと診察所見の乖離、代謝性アシドーシス、乳酸上昇にも留意する |
| 腹腔内出血 | 異所性妊娠破裂、腹部大動脈瘤破裂、外傷性臓器損傷 | 低血圧、頻脈、冷汗、失神、貧血所見を伴えば迅速な蘇生と画像評価が必要 |
| 膵・胆道系疾患 | 重症急性膵炎、胆嚢穿孔、胆汁性腹膜炎 | 上腹部痛の持続、炎症進展、腹水、全身性炎症反応の有無を評価する |
腹膜炎は、虫垂炎、憩室炎、絞扼性腸閉塞、急性膵炎、骨盤内炎症性疾患、腸間膜虚血など、強い腹腔内炎症を生じる多様な疾患でも起こり得ます。さらに、血液自体も腹膜を刺激するため、腹部大動脈瘤破裂、外傷、術後出血、卵管妊娠を含む異所性妊娠破裂などの腹腔内出血も重要な鑑別です。
参考)Acute Abdominal Pain - Gastroe…
腹膜刺激症状を評価する際は、「どの所見が陽性か」だけではなく、疼痛の部位、疼痛の時間的変化、全身状態、腹部膨満、腸雑音、循環動態を一体として捉えます。局在する圧痛や限局性の筋性防御は、虫垂炎、胆嚢炎、憩室炎、局所穿孔などの病変部位の推定に役立ちます。一方、腹部全体の圧痛、広範な反跳痛、板状硬を思わせる筋性硬直は、汎発性腹膜炎を示唆し、消化管穿孔や広範な腸管壊死などを強く考えます。
診察は、最も痛い部位からいきなり深く触れず、まず患者の表情、呼吸、体動、膝屈曲位の有無などを観察します。腹膜炎が強い患者では、腹壁の動きによる疼痛を避けるため、仰臥位で体を動かさず、浅く速い呼吸をすることがあります。触診は非疼痛部位から開始して、軽い触診、深い触診、打診へと段階的に進めます。咳やベッドの振動、踵落としによる疼痛誘発も、強い圧迫を行いにくい場面で補助的に利用できます。
ただし、反跳痛や筋性防御の有無を過度に単純化してはいけません。恐怖、寒冷、腹壁肥満、認知機能低下、せん妄、疼痛閾値の個人差、随意性の腹筋緊張は診察所見を変動させます。筋性防御は、診察に対する随意的な腹筋緊張と区別する必要があります。患者の呼気時に腹壁が弛緩するか、会話や膝屈曲で緊張が軽くなるか、診察を反復しても一定の抵抗として残るかを観察し、臨床判断を補正します。
腹膜刺激症状を認める患者では、診断のための検査が蘇生や専門科コンサルトを遅らせないよう注意します。まずABCDEの視点で気道、呼吸、循環、意識状態を評価し、連続的なバイタルサイン監視、静脈路確保、必要時の酸素投与、輸液・輸血を含む循環管理を行います。消化管穿孔、腸管壊死、腹腔内出血、敗血症を疑う場合は、早い段階で外科、救急科、婦人科、消化器内科、放射線科などへ連携します。
検査では、血算、電解質、腎機能、肝胆道系酵素、炎症反応、凝固系、血液ガス、乳酸、血液型・不規則抗体検査などを病態に応じて選択します。ただし、検査値が軽度異常または正常であることは、重症疾患を確実に否定する根拠になりません。とくに腸間膜虚血では、初期に腹部所見や乳酸上昇が乏しい場合があり、経過、危険因子、疼痛の程度、造影CTの適応を総合的に評価します。
画像診断は、循環動態が許す限り造影CTが重要な位置を占めます。穿孔に伴う腹腔内遊離ガス、炎症性脂肪織濃度上昇、腸管壁造影不良、閉塞起点、腸管拡張、腹水、膿瘍、血管閉塞、活動性出血などを評価できます。胆道疾患、婦人科疾患、腹部大動脈瘤、腹水評価では超音波検査が迅速な初期評価として有用です。妊娠可能年齢の女性では、妊娠反応を確認したうえで、経腟超音波を含む婦人科的評価を遅らせないことが重要です。
絶飲食、適切な鎮痛、制吐、輸液は多くの急性腹症で必要となります。鎮痛薬の投与は診察を妨げるという理由だけで不必要に遅らせるべきではありませんが、投与前後の腹部所見とバイタルサインを記録し、再診察可能な体制を確保します。消化管穿孔や腹腔内感染症が疑われる場合には、培養採取の可否と治療開始の緊急性を踏まえ、局所の抗菌薬適正使用方針および外科的ソースコントロールの見通しに沿って抗菌薬を開始します。
急性腹痛の評価では、腹膜刺激症状、ショック、腸閉塞の徴候を確認し、生命を脅かす原因を先に除外することが重要です。腹膜刺激症状が評価中のどの時点で出現しても、緊急外科的評価を要する可能性があります。
腹膜刺激症状がないことは、腹膜炎、腸間膜虚血、穿孔、出血を完全に否定するものではありません。高齢者では、疼痛訴え、発熱、白血球増多、筋性防御が非典型的または乏しいことがあります。免疫抑制薬、抗がん薬、ステロイド、分子標的薬、生物学的製剤の使用中では、炎症反応や発熱が目立たず、感染性腹膜炎や消化管穿孔の診断が遅れるリスクがあります。鎮痛薬、鎮静薬、神経障害、認知症、脊髄疾患も、疼痛表現や診察協力に影響します。
腹膜透析患者では、混濁排液、腹痛、発熱、悪心・嘔吐が腹膜炎の重要な手掛かりになりますが、局所的な腹膜刺激症状の程度はさまざまです。肝硬変に伴う腹水患者では、自然発症細菌性腹膜炎を考慮し、腹痛や発熱が乏しくても意識変容、腎機能悪化、血圧低下、腹水増加などを契機に腹水検査を検討します。一方、腹水を有する患者で強い腹膜刺激症状を伴う場合は、二次性腹膜炎、消化管穿孔、胆汁漏、虚血性腸疾患などを優先して評価します。
薬剤関連では、NSAIDsによる消化性潰瘍と穿孔、ステロイド併用による症状修飾、抗凝固薬による後腹膜・腹腔内出血、抗がん薬や免疫チェックポイント阻害薬に関連する腸炎・穿孔リスクなど、服薬歴が鑑別を大きく動かすことがあります。薬剤師・看護師を含む医療従事者は、患者が持参した薬剤、注射薬、貼付薬、サプリメント、直近の治療変更を丁寧に確認し、処方歴と症候の時間関係を診療チームへ共有する役割を担います。
腹膜刺激症状は、疾患名そのものではなく、腹腔内で進行する危険な病態を示す徴候です。圧痛、反跳痛、筋性防御、筋性硬直、打診痛の確認に加え、疼痛の経過、循環動態、腹部膨満、嘔吐、出血リスク、妊娠可能性、免疫状態、薬剤歴を統合して評価することが、消化管穿孔、腹腔内出血、絞扼性腸閉塞、腸間膜虚血などの見逃しを減らします。腹膜炎または腸間膜血管障害を臨床的に疑う場合は、腹膜刺激徴候が明瞭でない場合も画像検査を追加することが推奨されています。
参考)https://www.jsvs.org/ja/info/news/241001/20240916.pdf