
ウェルニッケ脳症は、ビタミンB1であるチアミンの欠乏によって生じる、急性かつ治療可能な神経精神疾患です。チアミンは糖代謝に関与する補酵素であり、エネルギー需要の大きい脳では欠乏の影響が表れやすいと考えられています。欠乏が進行すると、視床、乳頭体、中脳水道周囲、第三脳室周囲などに病変を来し、意識・認知機能、眼球運動、平衡・協調運動に関わる症候が出現します。
臨床で重要なのは、ウェルニッケ脳症を「アルコール使用障害の患者だけに起こる疾患」と限定しないことです。慢性的な多量飲酒は代表的な背景因子ですが、摂食不良、低栄養、長期絶食、妊娠悪阻、反復する嘔吐、下痢、消化管閉塞、炎症性腸疾患、悪性腫瘍、透析、重症感染症、消化器手術後、肥満代謝手術後、長期の静脈栄養管理など、チアミン摂取不足・吸収障害・必要量増大を来す多様な状況で発症し得ます。栄養状態の悪化がある患者で急性の神経症状を認めた場合は、飲酒歴の有無にかかわらず本症を鑑別に入れる必要があります。EFNSガイドラインも、チアミン欠乏を来し得るすべての臨床状況でウェルニッケ脳症を疑うべきであるとしています。
参考)https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/j.1468-1331.2010.03153.x
未治療のまま経過すると、昏睡、死亡、あるいは記憶障害・作話を中心とするコルサコフ症候群へ移行するおそれがあります。ウェルニッケ脳症は、早期の非経口的チアミン投与により改善が見込める一方、診断と治療の遅れによって不可逆的な障害を残し得るため、「確定してから治療する」のではなく「疑った時点で治療を開始する」ことが臨床上の基本になります。
参考)Wernicke Encephalopathy - Stat…
| 項目 | 基準・内容 | 備考 |
|---|---|---|
| 意識・認知の変化 | 錯乱、注意力低下、見当識障害、傾眠、せん妄、無気力、記憶障害、認知機能低下 | 軽度の精神状態変化でも見逃さず、ベースラインとの比較が重要 |
| 眼症状 | 眼振、外眼筋麻痺、複視、眼球運動制限、共同偏視、注視麻痺 | 水平性眼振がよく知られるが、眼球運動を系統的に診察する |
| 小脳機能障害 | 歩行失調、開脚歩行、体幹失調、立位保持困難、協調運動障害 | 歩行不能例では座位・立位バランス、指鼻試験などで評価する |
| 栄養欠乏の徴候 | 食事摂取不良、体重減少、持続する嘔吐、下痢、低栄養、絶食や偏食 | 症候そのものではないが、臨床診断を支える重要な背景所見 |
意識・認知の変化には、明らかな錯乱だけでなく、集中困難、反応性低下、易疲労感、眠気、場所や時間の見当識低下、短期記憶の低下などが含まれます。特に入院患者では、せん妄、肝性脳症、薬剤性鎮静、感染症、低血糖、電解質異常、離脱症候群などと症候が重なるため、単一の診断に早期固定しないことが重要です。
眼症状としては、眼振、外眼筋麻痺、複視、注視方向性眼振、共同偏視などが重要です。眼球運動は患者の訴えが乏しくても異常を認める場合があるため、正面視、左右・上下の追視、眼振の有無、複視、瞳孔所見、輻輳などを可能な範囲で系統的に評価します。歩行失調は、ふらつき、開脚歩行、方向転換時の不安定さ、立位維持困難として現れます。転倒リスクが高いことから、独歩を無理に促さず、介助下での観察やベッドサイド評価を優先します。
ウェルニッケ脳症は、単独の血液検査や画像検査で否定できる疾患ではなく、病歴、栄養状態、神経学的所見を統合して判断する臨床診断です。EFNSガイドラインでは、アルコール関連の患者において、食事・栄養状態の不良、眼症状、小脳機能障害、精神状態変化または軽度の記憶障害の4項目のうち2項目を満たす場合に臨床的に診断する考え方が示されています。この枠組みは、古典的三徴が不完全な症例を拾い上げるために有用です。
血中チアミン濃度は投与前に採取できれば参考になりますが、結果を待って治療を遅らせる根拠にはなりません。血中濃度が神経組織での機能的欠乏を完全に反映するとは限らず、採血可否や検査結果に依存した診療は危険です。可能であればチアミン投与直前に採血しつつ、臨床的に疑わしい場合は直ちに投与します。
MRIは急性期ウェルニッケ脳症の診断を支持する検査として位置付けられます。典型的には、両側対称性の視床内側、乳頭体、中脳水道周囲、第三脳室周囲などの異常信号が知られています。ただし、MRIが正常であっても本症は除外できず、CTが正常であることも否定材料にはなりません。画像検査は鑑別診断や支持所見の取得に役立ちますが、チアミン投与を待つ理由にはならない点をチーム内で共有します。
EFNS guidelines for diagnosis, therapy and prevention of Wernicke encephalopathy
ウェルニッケ脳症が疑われる患者では、チアミンを速やかに非経口投与することが重要です。チアミンは安全性が比較的高く、治療遅延による神経学的後遺症のリスクを考慮すると、疑診段階での投与が基本になります。EFNSガイドラインでは、疑い例または明らかなウェルニッケ脳症に対し、炭水化物投与より前に、原則として静脈内でチアミン200 mgを1日3回投与することを推奨しています。ただし投与量、投与間隔、投与期間は地域・施設のプロトコルや患者背景で異なるため、院内規定、救急診療の手順、専門科との連携を確認して実施します。
特に注意したいのは、低栄養患者にブドウ糖輸液や栄養投与を先行させる場面です。糖質負荷によってチアミン需要が増すと、潜在的な欠乏が顕在化または増悪する可能性があります。そのため、低栄養、持続嘔吐、アルコール使用障害、絶食後の栄養再開などの状況では、糖質を含む輸液や栄養投与に先立ち、または少なくとも同時遅滞なくチアミン補充を行う意識が必要です。
初期対応では、気道・呼吸・循環の安定化、血糖測定、感染症や頭蓋内疾患の評価、電解質・腎機能・肝機能・血算・マグネシウム・リンなどの確認も並行して行います。低マグネシウム血症はチアミンの機能に影響し得るため、臨床状況に応じて補正を検討します。また、離脱せん妄、脳卒中、髄膜脳炎、非けいれん性てんかん重積、肝性脳症、低血糖、薬物中毒など、緊急性を要する鑑別疾患を同時に評価します。チアミン投与と鑑別診断の進行は、二者択一ではなく並行して実施すべきです。
参考)https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/imj.12522
治療後の経過観察では、眼症状、意識・注意機能、見当識、記憶、立位・歩行、摂食状況を経時的に評価します。眼球運動障害は比較的早期に改善を示すことがありますが、歩行障害や記憶障害は遷延する場合があります。改善の有無だけでなく、転倒、誤嚥、自己抜去、せん妄による事故を防ぐ看護・リハビリテーション・栄養支援を組み合わせることが重要です。
ウェルニッケ脳症の見逃しを減らすには、救急外来、病棟、周術期、精神科・依存症診療、消化器内科、産婦人科、栄養サポートチームなどで共通するスクリーニングの視点を持つことが有用です。「食べられていない」「吐いている」「急にぼんやりしている」「歩けなくなった」「眼が合いにくい・動きがおかしい」という情報は、個別には非特異的でも、組み合わさることで重要な警告サインになります。
問診では、飲酒量だけでなく、最後に十分な食事を摂取できた時期、体重変化、嘔吐・下痢の期間、食事内容の偏り、サプリメント使用、胃切除や肥満代謝手術の既往、悪性疾患治療、栄養投与の状況を確認します。患者本人から十分な病歴が得られない場合には、家族、救急隊、施設職員、紹介元からの情報が診断精度を大きく左右します。飲酒歴が不明であっても、栄養欠乏の可能性があればリスクは残るため、「否定できない」こと自体を臨床判断に反映させます。
神経所見は、「意識清明」「歩行可」といった短い記載だけでは経時変化を追いにくくなります。たとえば、見当識、注意保持、眼振の方向、複視の有無、左右上下への眼球運動、起立時のふらつき、歩隔、介助量、転倒歴などを具体的に記録すると、治療反応の判定や申し送りに役立ちます。歩行評価が危険な場合には、無理に歩かせず、座位バランスや体幹保持など安全な範囲での観察に切り替えます。
ウェルニッケ脳症は、症状の一部が可逆的であっても、治療の遅れによって持続的な記憶障害や生活機能低下を残す可能性があります。チアミン欠乏の危険因子と神経症状が重なった時点で、本症を積極的に疑い、必要な採血・画像・鑑別診断を進めながら迅速なチアミン補充につなげることが、患者の予後を左右します。典型的三徴がそろうまで待たないことが、ウェルニッケ脳症の症状を診るうえで最も重要な実践ポイントです。